Aug 19, 2009
自然な感じの胸は、ヒアルロン酸注入
どのようなコメディアンの解説と言う、"普通の女性の胸は、横にすると左右に流れるのだが、シリコン(ケイ素樹脂)で、胸した胸は、不自然な形が崩れないすぐに知ることができる"ということだ。そして、"寝転がって、胸が自然に流れ胸手術がバレにくい方法で、ヒアルロン酸注入が有効である"と述べていた。悩みの皆さん。ヒアルロン酸の注入です。整形といえば、豊胸手術や脂肪吸引などの麻酔が必要な大々的な手術をイメージじゃないですか?少し覚悟を持って臨まなければいけない気がしてしまうのだが、最近は簡単に挑戦できるヒアルロン酸注入などのプチ整形が人気です。ヒアルロン酸注入は、シワが気になる部分に注射器でヒアルロン酸を注入してシワを改善する方法です。すぐに変化を実感できるので、非常に人気を集めています。
巨人のドラフト1位・沢村拓一投手(22)=中大=が6日、剛球のリミッター解除を宣言した。東京・よみうりランド内のジャイアンツ球場で、プロ入り最多の111球を投げ、「もっと真っすぐを磨きたい。これまでは変化球を重視してきましたが、次は直球がテーマです」と全力投球を予告。次回先発予定のオリックス戦(12日、京セラD)で、直球の精度向上を誓った。
キャンプ中2月15日の紅白戦、24日の韓国・ハンファ戦、そして今月2日の西武戦と、過去3度の実戦は制球力に注意し、最速は149キロにとどまった。開幕まで3週間を切り、球威アップを求めることは、150キロ突破を意味している。
ブルペン投球も、近づくペナントレースを見据えた内容だった。111球のうち、スライダー、カーブを29球ずつ計58球。直球は53球で、変化球の数が上回った。「直球は遠投でもできますが、変化球は捕手に座ってもらわないといけないですから」。エンジンを全開にしても、変化球の制球が乱れないように、より時間を割いた。
佑ちゃんの好投も刺激になった。巨人戦に登板した日本ハム・斎藤の投球内容も、報道陣から伝えられる前に知っていた。「3回2安打無失点でしょ? 頑張ってほしいです」。ともに1軍での活躍を期待される同級生として、エールを送った。
状態は上向く一方だ。沖縄キャンプ最終日に100球を投げたのが、調整での最多投球数だった。111球を投げても「全然、疲れていません。(次は)長い回になると思うので、メリハリをつけたい」。オリックス戦は7回100球がめど。最速157キロの剛腕が真価を見せる。
◆沢村の剛速球メモ
▽157キロ 昨年5月4日、東都大学春季リーグの東洋大1回戦。首位攻防初戦の初回、3番への初球。右打者の内角を突き、自身の記録を1キロ更新。「気持ちが乗ってた」と東都では異例の8000人の観客に燃えた。
▽156キロ 09年9月5日の青学大1回戦。初回、3番打者への初球。左打者の内角に投じ、三邪飛に。神宮の学生最速記録を樹立し、3失点完投も2―3で負け投手。
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和歌山・箕島高監督として、1979年に史上3校目の春夏全国連覇を達成するなど、高校野球の一時代を築いた尾藤公氏が6日午前3時37分、ぼうこう移行上皮がんのため、和歌山市内の病院で死去した。68歳だった。66年に同校の監督に就任し、95年に退くまで春夏通じて14度、甲子園大会に出場して春3度、夏1度優勝。79年夏の星稜高と延長18回の激闘を演じた同氏は、04年にぼうこうがんを患い、闘病生活を続けていた。
ひとつの時代が終わった。尾藤元監督は70年に島本講平(元近鉄)を擁してセンバツ初優勝。79年に石井毅(元西武)、嶋田宗彦(現阪神2軍バッテリーコーチ)のバッテリーで史上3校目の春夏連覇へ導き、東尾修(元西武監督)、吉井理人(現日本ハム投手コーチ)ら多くの選手をプロ球界に送り込んだ名将が旅立った。
2004年ごろにぼうこうがんを発症。再発、転移を繰り返し、最近では歩行もままならなくなった。妻・さとみさん(63)の介護を受け、自宅療養を続けていたが、2月15日に再入院。肺から出る血痰(たん)の影響で声が出ず、水も飲めなかった。「やせ細っていたが、しんどいとは言わなかった」と、教え子で箕島高野球部の松下博紀監督(47)は、精神力の強さに驚いた。
4日には79年の春夏連覇時の主将、上野山善久さん(49)ら当時の選手のお見舞いも受けたが、5日夜に体調が急変。長男の強(つよし)さん(41)に見守られ、静かに息を引き取った。「野球部の教え子としては、“あきらめたらイカン”と言っていたこともあって、弱音を吐けなかったのでしょう」と、強さんは8年にも及ぶ闘病生活を振り返った。
トレードマークは甲子園で見せる「尾藤スマイル」だったが、23歳の若さで母校・箕島高の監督へ就任した当時は厳しさを前面に押し出し、“鬼の尾藤”で通した。70年にセンバツ優勝後、一度チームを離れたのは、このまま突き進んでいいのか、と立ち返るために必要だったのかもしれない。そして、優しさも兼ね備えた指導者となり、あの「尾藤スマイル」へつながった。
母校を愛し、そして高校野球を愛し続けた尾藤さん。昨年9月に行われた箕島、星稜の31年ぶりの“再試合”で、教え子たちの笑顔に囲まれた時が最後の甲子園になった。23日には今年もセンバツが開幕する。球春を迎える空には、球児を見守るあの「尾藤スマイル」がいつまでも輝いている。
◆尾藤 公(びとう・ただし)1942年10月23日、和歌山・有田市生まれ。現役時代は捕手。近大を中退したあと、銀行勤務を経て、1966年に母校である箕島高の監督に就任。就任3年目の春のセンバツで甲子園初出場。その後、95年夏の勇退まで春夏合わせて14回出場し、春3度、夏1度優勝。甲子園での通算戦績は35勝(歴代8位タイ)10敗。勇退後も日本高等学校野球連盟常任理事として、高校野球の発展に寄与した。
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